知っとーと 唐津トリビア
ABOUT KARATSU
2023.04.18
唐津くんちの掛け声
唐津くんちは巨大豪華な一閑帳の曳山で全国的に知られている。曳山は一八一九年に刀町が「赤獅子」を作ったのが始まりで、以後各町が次々と制作、合計15台となり、そのうち14台が現存する。毎年11月4日の町廻りで、曳子たちの威勢のよい掛け声とともに14台が旧城下町を練り歩く。その掛け声は「エンヤ、エンヤ」が知られるが、なぜか4番曳山「源義経の兜・呉服町」と14番曳山

2023.04.18
稲作文化発祥の地 菜畑遺跡
1979年、菜畑遺跡が発見された。 調査によって縄文前期から弥生中期にかけての遺跡と確認された。 さらにその最下層の水田跡からの出土品により、その水田が約2500年前、日本最古のものと認定された。 中国の河姆渡(かぼと)遺跡は高度な稲作文化を生んだ地として知られるが、その文化が時を経て、何らかのルートで日本列島にもたらされたが、その最初の地が唐津・菜畑だった

2023.04.18
幕末の面影 城内
唐津市内には藩政時代の面影を残す場所がそこかしこに現存する。 例えば、復元されて今や市のシンボルとなっている唐津城天守閣を望みながら城内地区を散索していると、道の両側に往時の石垣や土塀を見ることができる。 そこに両刀を帯び、髷を結った着物姿の侍が歩いていても不思議ではない雰囲気である。

2023.04.18
十八才の高橋是清と耐恒寮
明治4年、唐津藩知事・小笠原長国は新時代の人材育成のために英学塾「耐恒寮」を開く。 そこから辰野金吾、曽禰達蔵、大島小太郎、天野為之ら俊秀が巣立ったが、教師として招かれたのが、後に大蔵大臣総理大臣として国運を担い、二・二六事件で凶弾に倒れた高橋是清。 ただ、その時高橋がまだ18歳だったことは驚かされる。

2023.04.18
幕末の混迷期に町人達は曳山を造っていた
写真(左)酒吞童子と源頼朝の兜(右)上杉謙信の兜 1867年老中小笠原長行の意向で若い唐津藩士(尾﨑俊蔵)がパリ万博に派遣され、 ヨーロッパ各国の見聞を広め、一方では1868年藩士達は会津藩と共に政府軍と戦い、 1868年戊辰戦争で江戸幕府が倒れ、激動の時にも唐津の町人(商人)達は曳山(やま)を創りました。 1869年に平野町の人々は「上杉謙信の兜」、米屋町

2023.04.17
唐津藩士 大野右仲(うちゅう)
1836年に唐津に生まれ、19才で江戸の昌平坂学問所で学び、後に奇兵隊を設立した長州藩の高杉晋作とは親友となりました。 鳥羽伏見の戦いで敗退すると、1868年会津で土方歳三に初めて会い23名の唐津藩士と共に新選組に入隊し唐津藩箱館新選組を結成し、土方歳三等と箱館五稜郭で戦いました。 また、右仲は明治27年(1894)から2年間久敬社塾の責任者となりました。